趣味人をバカにする暇人サラリーマン共はもっと必死に生きるべき
家のなか寒すぎですよ。友達は登山用靴下です。くまがいです。
最近、よく周囲の人間に「お前、趣味人だからな」と言われる。
いや、最近ではない。学生のころから言われていました。
言われるたびに「凝り性で何が悪い」と思っていたのですが、最近になってその方向性が変わってきて、どうも「お前は大事なものをはき違えている。仕事しろ。」と言われているような気がする。
いや仕事は頑張ってしていますけど、どうも自分の好きなことの話をするとみなそう思うらしい。不思議でしょうがないのです。
自分の好み、スタイル、人間性を確立したいと思うことは悪いことではない
思えばそんなような事を言う人たちは「ぼくちゃんはお仕事に精一杯でそんないらんことに興味を持つ暇がないの」という論法みたいですが(違うかな?)、本当にそうなのであればしょうがないのだけれど、ほとんどの人が帰宅後に飯食って風呂入った後はスマホでマンガなんて読んでいるんじゃないですか?
行き帰りの電車のなかではスマホで大して興味のない芸能ニュースまとめとか見ていたりするわけです。
声を大にして言いたい。僕は君たちとは集中力が違うだけなのですよ。
君たちが酔うために飲んでいるお酒や、何となくうまいとも思わず飲んでいるコーヒーに対して、僕は「何でこんなものが美味いんだ?どうしたらもっとうまいものが?」と考えてしまっているだけなのです。
それに対して日々考え、時間を作って「丁寧に楽しもうとしているだけ」なんですよ。
「仕事を頑張っている人=仕事にしか頭使わない人」な訳がない
仕事を生きがいにしている人、または仕事に対して全身全霊で向き合っている人に「お前さあ」と言われたら私も何も言えません。「うへへ。」と笑うことしかできません。
実際に身近に沢山そういうスゴイ人がいますが、そういう人たちはまた論法が違うからまた面白い。
「お前にとってなんでそれって大事なの?」って聞き方をするのです。ここからまた仕事話に花が咲くのです。
僕は今の仕事がすべてだと思っていません。
なので僕は日々、将来どうやって生きていこうかを考えているのです。
今楽しいと思っていることが仕事になる日が来たとき、僕も全身全霊で仕事に立ち向かえるのだろうし、これから来る仕事がとんでもなく楽しいかもしれない。
今そうではない(と感じている)から、暇な時間には服やお酒なんかの事を考えているし、朝ちょっとだけ早く起きてパンとコーヒーの準備をしたりしているわけです。
仕事の空き時間にはプログラミングをしてみたり、WEBデザインの勉強をしてみたりもします。というか、平日はほぼそれ。息抜きにコーヒー淹れるけど。それも大真面目に淹れます。
暇人が惰性でニュースアプリを見ているその時間に、ほかの事をしているだけなのです。
「不倫した役者の記事を眺めてぼーっとしている時間に僕がパンとコーヒーについて調べていること」と、「僕が真面目に仕事しているか否かは無関係」なのです。なぜか皆そこに結び付けたがる。
営業職で話のレパートリーを増やすためになんとなく読んでます。とか本気でいうのであればわかりますけどね。
僕は自分の範疇にある仕事は完遂する自信があるし、日々の勉強も惜しまないつもりです。
新しい分野への勉強がはかどらないことも多々ありますがね...
普通のサラリーマンは「充実してるっぽい人」が嫌い?
そこで考えたのです。もしかして僕、ちょっとリア充感あるのかな?と。
俺だって時間あればそんくらいの事できるわい!と思いつつも、LINEマンガでどーでもいい作品に目を通す時間。ガルチャンでゲスい記事を読み漁る時間を捨てられない自分を守るために、「お前暇かよ」って言ってくるのではなかろうかと。
僕からすると、逆にお前ら暇すぎだろと思いますがね。
中身のない種類のパリピに、「真面目かよ」って言われるのと同じ種類の虚無感。
もっと全力で生きようといいたい
こういう暇な人たちが口をそろえていうのは「何もない日常が楽しいから趣味なんていらない」とかそういうこと。
もっと日常を楽しむ努力をしようぜ。愛すべき人をもっと愛して、全力でリラックスしようぜ。
これは僕が自分に対していえることなのですが、もっと必死に生きようと言いたい。
何も死ぬほど働けとか、人のためになんかしろって言っているわけではなく、
食べるなら美味しく食べる。書くなら頑張って書く。寝るときは大真面目に寝る。
どこかで、なんか全部めんどくせえな...とハナクソほじくってニュースアプリに手を伸ばす自分がいるのだけれど、もう少しだけ頑張ろう。好きなことを考えてみたり、相方に今日の仕事はどうだったか聞いてみたり、休日はどう過ごそうか考えてみたりする。そっちのほうが有意義で人間的だと思いませんか。
ニュースアプリが好きで好きでしょうがないなら致し方ありませんがね。